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吹奏楽の話

先週、中学校と高等学校の全国大会が終わったようだ。そこで、色々なブログなり日記なりで書かれていることに反駁してみたりする。

全国大会でレスピーギ「ローマの祭」を演奏する団体が多かったそうだ。それを後ろ向きに考える人が、少なからず居るらしい。「演奏する団体が多過ぎる」とかね。けど、たまたま「ローマの祭」を演奏した団体達が、全国大会にまで駒を進めてきただけなのであって、それをまとめてどうこう言うのには、全く違和感が残る。「ローマの祭」が持つ演奏効果に助けられて勝ち上がってこれたとする部分も否定はしないけれども、第一に見るべきは、練習して演奏した生徒達の存在のはず。「ローマの祭」を演奏する団体数が多いと言っても、演奏している生徒達にしてみたら、自分達にとっての「ローマの祭」はたった1曲。それを、それぞれの演奏を聴きもしないで、取り上げた団体の数だけを見て、批判的な論評を加えることに何の意味があるのか。コンクールは、その名の通りコンクールであって、コンサートではない。出演団体全てを聴き通しても、その大会に通底するコンセプトなどはあるはずもないことが分かるだけだ。コンセプトは、出演した団体それぞれの演奏の中で完結しているはずで、それぞれの団体が選んだ課題曲と自由曲、そして演奏に求めるのが筋なのではないか。

そしてよく言われる「編曲よりオリジナルを」的なスローガン。これももういい加減やめにして欲しいものだ。前にも書いたことだが、管弦楽のコンサートで「ローマの祭」が取り上げられる機会が少なくて*1、それでも演奏したい聴きたい層の思いを汲んでいる、そんな意義が吹奏楽編曲にはあると思っている。編曲での演奏でレスピーギに出会って、この作曲家の奥深い世界に気付けた人が居るかも知れない。それはとても幸福なことだ。今回コンクールで「ローマの祭」を演奏した生徒達も、全員ではないにしろ、希有で貴重な体験を得た生徒も居ると思う。

過去の作曲家達の活動を振り返ってみれば、作品を知ってもらいたいがために、作曲家自身もオーケストラ作品をピアノ連弾などに編曲したりしてきた。まずは作品の「存在」をアピールする場が、作曲家には必要だったのだ。だから、サロン・コンサートのような音楽文化が日本に根付いていない以上、関わっている人間の多い吹奏楽の世界に作品紹介・啓蒙の舞台を求めるのは当然のことだ。ある作品をオーケストラで演奏する機会を得るためには、お金も時間も必要だし、オーケストラの多くはプロ、アマチュアに関わらず同時代の音楽に対しては驚くほど冷淡*2だ。それは今も昔も変わらない。その金銭的・環境的な課題をクリアする体力もない状態で作品の存在を知ってもらうためには、吹奏楽編曲のような活動は必要なのではないか。

僕は編曲が好きだな。編曲作品を演奏する際は、楽譜を読むという姿勢が、所謂オリジナル作品を取り上げる時よりも強く求められると思うから。本物偽物とか、そんな次元ではない。作曲者が何を書いたのか。それを編曲者がどう読み込んだのか。そしてそれをどう楽譜に落とし込んだか。そして今自分たちの演奏はどうなっているか。そういった色々な人の目が入っていることによって、より複眼的な思考を得ることができると思う。音楽は、発信者と受信者の気持ちのシンクロが感動を呼ぶ側面が強いのだから、演奏者は客観的な視点を常に持ち続けなければならないと思う。それを教えてくれるのが、編曲作品を演奏することだと思っている。編曲という行為自体は決して悪くない。悪い編曲があるだけだ。

僕は高校の時にアルフレッド・リードが編曲したバッハのコラールを演奏したが、あの鮮烈な体験を時折思い出しては、恍惚となることがある。そこには、リードのバッハ作品に対する憧憬や尊敬、そしてバッハの音楽が持つ広大さや奥深さが溢れていた。これは単なる僕の体験。

そして、別に編曲を手放しで礼賛しているわけでもないのです。いわゆる管楽器を中心とした編成向けに書かれた作品の中にも、大好きなものがある。どっちがどうこうという議論は、不毛な場所にしか僕らを連れていかないことは、もう多くの人が感じていると思う。僕のこれからは、そういう考えたちが世にある中で、どうやって音楽をシンプルに楽しむ雰囲気を作っていけるかだと思っている。難しいけど、一生を懸けるに値する活動のはずだ。

*1:少ないですよね?

*2:きちんと近現代の作品を取り上げている団体もあるにはあるが。