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吹奏楽への編曲の話

なぜ管弦楽曲吹奏楽に編曲されていくのか。それはプロ・オーケストラ、アマチュア・オーケストラの標準的な編成に原因があるのではないだろうか。オーケストラには、標準2管編成から大きく逸脱する作品を、なかなか取り上げられない現状があると思う。取り上げるにも、エキストラ奏者をよんだりすることでコストがかかる。それに標準2管編成で演奏可能な作品は、古典派・ロマン派を中心に随分あるわけで、その中での消化の繰り返しが行なわれている。しかし、19世紀末から20世紀を経て、管弦楽編成は大きく拡大されてきていて、その大きな編成でなければ味わえない音響と感動が、たくさんの音楽作品の中に蓄積されてきていることも無視できない。それを欲している聴衆も居れば、演奏してみたい奏者も居る。けれども、日本のオーケストラ群にそれを受け止める体力がない。受け止めようという気概もないオーケストラも少なくない。

そこで、吹奏楽編曲。吹奏楽の編成であれば、管楽器は十分過ぎるほど人数は居るわけで(当たり前だ)、プロコフィエフであろうが、R.シュトラウスであろうが、アーノルドであろうが、レスピーギであろうが、フレンニコフであろうが、ウォルトンであろうが、演奏可能なわけだ。

吹奏楽編曲を通してでないと実演で接することが出来ない作品の多さを考えてみる。そういった歪曲した形でしかその作品と出会えなかった悲劇を感じると同時に、そうまでしても演奏したかった・聴かせたかった人々の想いに感謝する気持ちが僕にはある。20世紀の作品に限れば、オーケストラが真摯に向き合ってこれたとは言えないと思うし、オーケストラの大雑把なフィルターから滑り落ちたものを掬い取ってきたのが、「吹奏楽編曲」という営みなのではないだろうか。

原曲を歪めることとして非難され、馬鹿にされ続けてきた。それでも、作品の存在を知らしめるための一手段としての役割を担ってきた吹奏楽編曲。それは、音楽作品と殉じることも厭わない伝道師のようだ。