歴史小説とクラシック音楽
クラシックのことを、「クラシック」ではない言葉でパッと言い表せれたらいいのだけど。去年の今頃も同じようなことを考えていたな。音楽の世界と小説の世界を比べて。そこで過去に書いたものをもうちょっと掘り下げてみたりする。「歴史小説」という種類の小説。音楽における「クラシック」は、小説の世界での「歴史小説」というジャンル(?)に、立場的には近いのではないかな。
歴史小説 | クラシック | |
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材料 | 歴史上の人物、史料 | 作曲家、作曲家の楽譜 |
表現者 | 作家 | 指揮者・演奏家 |
「歴史小説」で言えば、描くテーマ自体は既に存在している。新選組のことだったり、織田信長のことだったり、大津皇子のことだったりする。そしてそれらの存在自体は動かしようもないものであって、それを知ろう知ろうとしても、その人物が本当はどんなキャラクターだったのか、何を考えていたのかは分からない。そしてその人物を描く作家の違いによって、違う姿が提示されていく。新選組なら、司馬遼太郎や池波正太郎、浅田次郎。織田信長なら津本陽や司馬遼太郎、もっとあると思うが。大津皇子なら、黒岩重吾や藤川桂介w 時には作家の恣意的な創作が入っているかも知れない。浅田次郎の「壬生義士伝」には架空の人物が登場するし、藤川桂介の「宇宙皇子」はSFの中の歴史上人物だ。
「クラシック」でも音楽になる材料自体はもう存在している。例えばバッハ、ブラームス、ウォルトン。彼らは音楽を楽譜に書き残した。作曲家が存命だった当時の演奏慣習の記録や、演奏する姿を描いた絵が残される。けれど、作曲家が求めた音楽の本当の姿は、知ろう知ろうとしても辿りつけない。そして、それら作曲家の音楽を取り上げる指揮者が居る。バッハならレオンハルトだとか、ミュンヒンガーや有田正広。ブラームスならカラヤンやヨッフム、ハーディング。ウォルトンならマリナーやグローヴズ、プレヴィン。更に指揮するオーケストラによる違いもあったりする。そしてそのバッハやブラームスを演奏した音楽は、それぞれが別のものになっている。カラヤンの音楽に自然な盛り上がりの中でのタメがあったり、楽譜に書いてあることを忠実にしようとするハーディングの考えがあったり。ウォルトンなどはまだまだ録音が少ない。歴史小説で言えば、誰だろう?
そして今も歴史が続いていくのと同じで、今もクラシック音楽は生み出されている。将来的に「小説・小泉純一郎」を誰かが書くかも知れない。土井たか子の仕事が小説風に書かれることもきっとあるだろう。今もクラシックでは、西村朗や細川俊夫などの存命中の作曲家が楽譜を書き、作品を残している。彼らの音楽が今後も残って演奏されていくかどうかは分からない。それでも書き続ける。それは、音楽を生きる彼らの自然な行為。音楽の歴史を今も作っている担い手達。久石譲や丸山和範の音楽が、今後クラシックとして取り上げられることがないとも言えない。
そして、aikoやコブクロとかのJ-POPは、小説でもそれに当たる雰囲気のものはあるんじゃないかな。今作られているフィクションの中から適当なものを、それぞれがイメージに合致するものを当て嵌めてみたり。
いや、書いても書いても難しい話題。