「音楽現代」7月号
最新号ではないが読む機会があった。ショスタコーヴィチが特集されており、この作曲家に関するエッセイなどが掲載されていた。ある指揮者のエッセイも。この指揮者はショスタコーヴィチから、
想像しても到底近づけない「血」と「文化の違い」
を感じておられるらしい。ショスタコーヴィチが直面した酷な歴史は、
現代を生きる私たちにとって、その当時に立ち返るにはあまりにも辛すぎる歴史である。
らしく、想像はできてもショスタコーヴィチが経験したことなど、分かるはずもない、とそのセンテンスを結んでいる。そして文章はあっちへ行きこっちへ行き、結局のところ何をおっしゃりたいのかよく分からず、最後は自分が指揮をするショスタコーヴィチの演奏会の宣伝で終わっている。表現者としての覚悟のようなものは、最後のこの一文だけ。
その時々で可能な限りの想像力を駆使して、スコアの中に飛び込んでいってみようと思う。
これが無かったらもっと呆れたが・・・。
この指揮者とは、金聖響。作曲家が第一と各方面で主張されている金さんだ。
作曲家のことを「分かるはずもない」とは・・・。考えても考えても、本当に分かる域に達することはなくとも、分かろうと考え続けるのが、作曲家を大切にする姿勢ではないのだろうか。そして金さんがよく取り上げられるモーツァルトやベートーヴェンのことについては、「分かる」というのだろうか。ショスタコーヴィチのような同じ時代に生きた作曲家*1だからこそ感じとれることも、今演奏する意味もあるのではないか。歴史が辛いからと言って、目を背けるのは間違っていると思う。それにモーツァルトだってベートーヴェンだって、ショスタコーヴィチのそれに比肩するほどの、複雑な歴史的状況に囲まれていたはず。