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ヴィブラートと寺神戸亮さんの言葉

指揮者という職業を営んでいる金聖響さんのブログで*1ワルター/ウィーン・フィルの演奏がまた取り上げられている。

金 聖響 Official Blog 棒振り日記: Mahler&Pure Tone

前回はこちらで取り上げられており、その時にも僕自身が感じたことを書いた(http://d.hatena.ne.jp/hrkntr/20060520/p1)。もしかして、ここ読んでもらっていたりしますかね? もしそうなら嬉しいなあ! と、自意識過剰。今回も考えたことをメモ的に。

ロジャー・ノリントンが自分の録音のライナーノートで語っていることを紹介して、金さん自身の方法論について少し語られているが、結局何をおっしゃりたいのか読み取るのが難しい。「pure tone」は素晴らしい、ロジャー・ノリントンはこう言った、ヴィブラート論争は終わらない、ヴィブラートを否定しているわけではない・・・? うーむ。「pure tone」という単語も、単にノリントンが感じた「pure」な「tone」という言い回しで、クラシック音楽全体に認知されているような単語でもないと思うのだけど、実際のところどうなのだろう。それにだいたい、pureとかpureじゃないとか、そういうのって・・・。まあいいや。

金さん自身の奏法に関する考えが感じ取れるのはこの部分。

僕としては史実を元にしたというベーシックなアイデアは変わらないし、これからも受けとめる側(演奏者)が許容出来る範囲で挑戦していきたいと思うが、なかなか時間的な問題や、奏法の認知や知識に難があるのは事実。兎に角時間がかかる事なので、許せる範囲で根気よくやるしかない。
金 聖響 Official Blog 棒振り日記: Mahler&Pure Tone

「史実」とおっしゃるなら、ノリントンの主張を参照・引用するだけでなく、他の文献なり録音なりを蒐集して検証していただきたいし、簡単に答えを出して欲しくないものだ。ノリントンの発言にアーノルド・ロゼーが出てくるが、ロゼーの録音は聴かれたのだろうか? よもやワルター/ウィーン・フィルの録音だけではないとは思うが・・・。もちろん研究されているとは思う。ブログにそういうことの全てが書けるものでもないので。だけどブログを読ませていただく限りでは、あまり伝わってこないのですよね、そういうバックボーンが。音楽用語は沢山あって、それなりに専門的な匂いはあるのだが、今回のエントリに限って言えば、ノリントンの言葉以外に読むべき重要な箇所は見当たらない。ブログを立ち上げられていて、色んな方にご自身の考えをプレゼンテーションできる良い場なのだから、ご自身の方法論を系統立てて説明されれば良いのでは? 「兎に角時間がかかる事」なのであれば尚更だ。それに歴史的なものというのは、常に「こうではないか」と問いを出し続けることでしか立ち上ってこないものだし、真実というのは永遠に分からないものだと思う。だからこそ、簡単に分かり切ったように結論を出さないほうが得策ですよ。今のピリオド・アプローチの流行がなくなった時に、もしくは本当に信頼するに足る情報が出てきた時に、困るのは金さんだと思うのだが・・・。

そこで提案なのだが、「兎に角時間がかかる事」ということであれば、ご自身の方法論を信じてくれる奏者を集めてオーケストラを作ってはいかがだろうか。沼尻竜典さんが「トウキョウ・モーツァルト・プレイヤーズ」を作られたように。時間がないことや、演奏者の許容度を、ご自身のアイデアを徹底できない理由にされるのであれば、だ。アマチュアでもいいと思う。モダンなオーボエで良ければ、声をおかけ下さい。使っているのはリグータです。って、無理。

ところで、ワルター/ウィーン・フィルマーラー交響曲第5番 嬰ハ短調」のアダージェットの演奏について、

これを聞くと冒頭から最高のpure toneで演奏されていることがわかる。ヴィヴラートをかけたとしても程よくて、常時音程を歪めるほどの揺れではない。これを聴いけば誰しも美しいと言うだろうし、表現豊なヴィヴラート云々は無いだろう。。。と僕は思う。
金 聖響 Official Blog 棒振り日記: Mahler&Pure Tone

と書かれているが、この曲の冒頭の弾き延ばしに極端なヴィブラートをかける演奏ってあるのだろうか? それに「これを聴けば誰しも美しいと言うだろうし」という感覚が不思議だ。誰もが同じことを感じ、同じ次元で美しさを共有することを求めて音楽をし続けるものだけど・・・。ところで、ヴィブラートって「vibrato」じゃないのですか? 「vivrato」? 「ヴィヴラート」?

最後に無関係に、気になって取り出してきて読んだ「古楽は私たちに何を聴かせるのか」での寺神戸亮さんの発言。

ヨーロッパでは今、雨後のタケノコのごとく、いろんなグループが出てきています。でも、レオンハルトブリュッヘンクイケンといった僕らの先輩が、どうしてオリジナル楽器を使おうと思ったのか、立ち戻って考える人は、一方で少なくなってきている。情報も氾濫し、オリジナル楽器も容易に手に入るようになり・・・そんな状況にあっても、極端な話だと「モダン楽器にガット弦を張って、バロック風に弾けばそれでいい」という風潮さえある。そして、こんな浅い考えのバロック演奏と、深い研究に根差す演奏との区別がまったくなくて、どちらも「オリジナル演奏」と呼ばれている状況なんです。そのちがいは、専門家でなければ、分かりませんよね。確かに「聴衆に受ければいい」と言えばそれまでだし、聴衆がいてこその音楽だから、もちろん聴衆に訴えかけるものは必要だと思います。しかし「バロックだから何でもいい」という風潮には、本当に不安を感じています。逆に「正しいことをしているなら、それでいい」とも、決して思いませんけど・・・。
古楽は私たちに何を聴かせるのか

寺神戸さんにして、この逡巡。それに寺神戸さんの演奏が聴衆不在のものとも感じない。

*1:もうやめろって?