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金聖響さんのインタビュー記事と、考えたこと

大阪センチュリー交響楽団の専任指揮者に就任される直前のインタビュー記事がある。こちら。

http://mic.e-osaka.ne.jp/century/memberssite/kiminterview03.1.10.html

これを読んでいると、言わなくていいことを言っては損をしている人なんだなと感じる。正直という点では愛すべき人なのかも知れないが…。例えばこういう部分。

師匠から言われたんですけれど、学術も音楽の感覚的な部分も、全て指揮者の脳みそを開けたら入っていたらいい。
でも、それは前に出さんでいいと。
楽家に対しては、より良い環境でより良い音を出して貰えれば、ちゃんと理詰めの部分も説明するけれど、
訳の判らない事を話してはいけないと。
頭を”パンッ”と割った時に、”お〜っ”と中身が詰まっていれば。

要するに、棒で表現するという部分で頭に入っているものが伝わればいいと。
いちいち口を使って説明するのではなく、出来る限り指揮で伝えろと。
それでダメだったら、そこで止めて、ちゃんと判るように説明しろという事をすごく教えられましたね。

こういう話を、インタビューで言う必要は全くありませんね。指揮をする上では当たり前過ぎる話でw 本当に必要な時だけ、皆に分かるように能力を示せと言う、使い古されたことわざを使えば「能ある鷹は爪を隠す」のバリエーションじゃないですか。金さんの師匠の意図は、学術や感覚的な部分を持っていることをひけらかすのではなく、それら知識なり感覚なりを糧に、棒でどうやって体現するかが重要という風に読み取ったが、いかがだろうか。判るように説明することが指揮者の責任だということを、師匠は伝えたかったのだと思う。最初は棒で、それがダメなら言葉で。

そしてインタビューではこういう遣り取りが続く。

I*1:今回のリハーサルで、センチュリーのメンバーに聖響さんの頭の中身が”パコッ”と開けて説明しなくても、きちんと伝わっていると感じられましたか?
K*2:部分的には感じませんでした。
僕が今日申し上げた全ての内容の半分も判っていない人も、いてはるかもしれないです。

金さんの言葉遣いは丁寧だが、違和感が残る。師匠が氏に"すごく"教えた「判るように説明しろ」という点が実現できていないし、それを放棄しているようにも読み取れる。呑気に「判っていない人も、いてはるかもしれないです」と言っている場合ではない。そして自分の棒の説明力の無さ、言葉の説明力の無さに対する反省もない。僕は、これは責められるべき点であると思うし、指揮者としての金さんに大きく欠落している点だと思う。

指揮者がそこに居る理由を考えてみた。一緒に音楽をやっていこうや!というスタンスは間違ってはいない。指導力を発揮し過ぎるあまり、自由に音楽する気風が失われたり、柔軟な音楽表現が出来なくなってしまうこともあるから。だがそれも、指揮者としての最低限の責任を果たしてこそだ。指揮者と言うと、すぐに解釈者としての役割がイメージされるが、それだけでは無い。指揮者の音楽が、奏者にとっての音楽でもあると奏者自身に思わせることが指揮者の努めであり、指揮者が必要な理由の一番大きなものだと思うのだ。

かつてのボストン交響楽団の奏者は言った。「ミュンシュ先生が大きな音が好きだから、僕たちは大きな音を出すのです」と。記憶を辿っての内容なので、詳細の文言は不正確かも知れないが、ニュアンスとしては間違っていないはず。ミュンシュが好きだから、喜ぶミュンシュの顔を見るのが好きだから、奏者は一所懸命だった。指揮者と奏者の関係を上手く表現したエピソードだと思う。こういう話もある。あるリコーダー奏者は「アーノンクールは常に僕らを叱咤激励している」と言った。これも指揮者が何をすべきかを思い知らせてくれる素敵なエピソードだ。アーノンクールの提示するテンポ感に違和感を覚えている奏者も居ただろう。だけどそのテンポを信じるアーノンクールに「こうやってみたら面白いよ! そうだ! もっともっと!」などとされているうちに、奏者は自分の表現として、アーノンクールの音楽をしていけるようになるのだ、きっと。

何も解釈を提示されることが、奏者にとって常に堅苦しく嫌なものでは無い。「ああ、こういう音楽もいいじゃないか」と奏者に少しでも思わせて、そして指揮者は出したい音を得ていく。

そして改めて言うが、ピリオド・アプローチを取り入れるというのは、指揮者の解釈なのだ。ベートーヴェン研究なり、原典研究なりはどんどんやっていけばいいが、ベートーヴェンからのメッセージの受け方は、指揮者それぞれが違うはずだ。その後のロマン派の萌芽を感じさせるようロマンティックにやってみようという内容かも知れないし、最新の楽譜の丁寧な再現に努めて古典派までの流れをイメージさせることかも知れない。今までの響きと異なるものを出して、ベートーヴェンや当時の聴衆が感じたことに近付こうということかも知れない。それは、指揮者一人一人が異なる以上、異なる受け取り方になっていくのだ。指揮者がどれだけクールに取り繕い、自己の解釈を殺したとしても、それは「自己を殺す」という解釈を採ったわけで、その程度の差で、また音楽に違いが生まれていく。そしてそれを自覚しなくてはいけない。これは、ベートーヴェンの本来の音楽を再現しようとする、指揮者としての「解釈」だ、と。それを自覚し、人に訴えかける熱意を、指揮者は誰よりも持たねばならない。「よく“解釈”って言いますけど、何それ?と思いますもん。指揮者が作品を必要以上に歪めてはいけないと思いますよ」と言うことは簡単だが、指揮者としてのフィルターを通す以上、やはりそれは金さんの解釈であり、金さんの音楽なのだ。それをまず意識する必要がありはしまいか。そうしなければ、金さんの主張が理解されていくことは難しいはずだ。「ベートーヴェンがやっていることを正しく再現しよう」では無くて、「ベートーヴェンがやっていることを正しく再現できると、僕が信じるこの方法をやろう」と、金さんから発せられたアプローチにしていかねばならないのだと思う。

そして、こういう遣り取り。

K:今までの悪しき伝統のスタイルと違う、原典に戻った古典演奏をしようと格闘しています。
I:どうしてそういう風に曲がってしまったのですか?
K:いえ、それは決して曲がったスタイルと言うのではなく、演奏習慣なんで、間違ってはいないと思いますよ。

金さんが言いたいことは、いったいどちらなんだと・・・。「悪しき伝統のスタイル」とまで言い切っておいて、次の発言では全く逆のことを言っている。この「悪しき伝統のスタイル」という単語が曲者で、古楽器を使った録音なり、ピリオド・アプローチなりを云々される時に必ず登場すると言っていい定型句なのだ。これに対して、インタビュアーが「曲がってしまったのですか?」突っ込んだところで、本人は自分の表現に面食らってなのか、「間違ってはいない」とまで言説を翻しているわけです。「悪しき伝統のスタイル」という単語自体に、何のエモーションも持ち合わせて居なかったことを吐露しているかのよう。「悪しき」とまで自分の言葉で表現したことが「間違ってはいない」というのは余りにも節操が無い。僕はこういうところに、彼がピリオド・アプローチを採用するバックボーンの浅さを感じてしまっているのです。「悪しき」と言い切る熱意があるのなら、それを突き通して欲しい。金さんの身近で音楽の話を出来る人は、こういうところをもっと突っ込んであげるべきなのだと思います。応援というのは、見守ることとは違うと思うのですよ。

*1:インタビュアー

*2:金さん