栗山民也「演出家の仕事」
読み進め中。
曲を作ることを戯曲を書くことに例えた矢代秋雄を思い出して、楽しい。演劇と音楽、どちらも客の時間を預かって膨らませて返していく営みということでは違いがない。指揮者を「指揮者」と呼ぶのをやめて「演出家」と呼んだほうが、大多数の人々に向けては指揮者が何をしているかが伝わりやすいのではないかなと思う。演劇の世界には明るくないのだが、演出家のしていることは理解できる。
例えば序盤のこの箇所。
演出家の大きな仕事の一つは、戯曲を読むことです。
一つの作品を演出するときに、その戯曲を何度読むことになるのでしょうか。また再演が決まったとき、新たに一から戯曲を読み直しますが、そこでは出演者が変更になったり、当然上演時期が移り変わっているのですから、初演とは違った新しい姿のドラマとしてまた新たに出会うことになるのです。これも、戯曲を読む楽しみです。
「演出家」を「指揮者」に、「戯曲」を「楽譜」に置き換えれば、指揮者の音楽に相対する態度そのままだと思った。
演劇での役者の声は重ならない。役者全員が同時に声を発することはあまりない。玉突きのように、言葉を継いでいくことが普通かな。演劇での演出家が舞台に登場することがないのも、演劇の進み方が玉突きでいいからなのかも知れない。ボールは一個。
クラシック音楽では、50人なら50人の奏者は、ベース部分をやっていたり旋律を奏でていたり、ハーモニーを担当したりと様々だ。基本はそんな諸要素がないまぜになりながら、全員が同時に音を出して音を重ねていく。その共同感が、演劇にないものだ。旋律の受け渡しのような部分は、演劇の玉突き的な作用があると思うけど、奏者が何かを考えて自由に組み立てるために与えられた時間は演劇に比べると少ないし、制限も多い。だから指揮者は舞台に登場し、自身は音を出さないけど誰よりも雄弁に動き指示を出し続ける。ボールは一個ではないが、その軌跡や向きを整理して大きな一個に見えるようにしていく。スーラの絵みたいな話だな。
演劇を稽古しているところを見てみたい。実際に演じてみたいとも思う。