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頼まれない限り、お年寄りに席は譲らない

僕は電車で空いている席を確保するために、知恵を絞っている。どの車両が人が少ないか、中央から並ぶか左右から並ぶか、二列になった時は左右のどちらが座ることができる確率が高いか、などなど。僕は体のある部分が弱いから、これは死活問題です。もちろん座れなくても、次の駅で座ることができるように、また対策を練るわけです。今日で言えば、そういう対策が功を奏してスムーズに座ることができた。そんな心境の僕の前に、発車間際にやってきて、いかにも当然のことのように物欲しげな目で僕を見るお年寄りが居た。

僕は電車でお年寄りに出会うことがあっても、席を譲らない。僕の体が万全ではないという理由もあるが、そのお年寄りが席に座りたいかどうかは、こちらからは分からないから。そのお年寄りは、日々の鍛練のために立っているのかも知れない。そのお年寄りは、一度座ってしまうと立つのがつらい体なのかも知れない(うちの親戚にこういう症状の人が居る)。そのお年寄りは、間もなく到着する次の駅で降りるのかも知れない。もちろんそのお年寄りは、足が弱くて座りたいかも知れない。けど、本当に座る必要があるのなら、お年寄り側からアプローチすべきなのでは無いかと思っている。いい大人なのだ。だから「譲ってくれませんか」と声をかけられない限りは、絶対に譲らない。

それに高齢化社会。数字の問題だけでは無くて、これからは実生活において高齢者が増えていくことなわけ。飲食店、繁華街、交通機関、自転車・自動車、あらゆる場所とシーンでお年寄りの割合が増える。電車。これからは今まで以上に電車の中はお年寄りで溢れるのだろうな。そういうお年寄り全てに気を配る、現実的ではない気がする。その時のための練習・鍛錬。お年寄りと言うだけで手を差し伸べてもらえる時代は終わったのではないか、と。

年金破綻とか国家予算破綻とか、色々なことが言われているが、これから高齢者になっていく人たちが、そういった局面に陥った根源を突き止められず解決できずに、今の時代があるのだと思う。色々な人が居るとは思うが、彼らは自分たちの子どもが大人になった時代のことを考えて、自分たちの時代を生きなかったのではないか。その時その時の生活の上で、「家族サービス」という名のもとに子どものために何かすることはあっても、自分たちがいなくなった後の子どもの時代のために、何かを考えて何か対処をしてきたのか。していないと思う。ああ、使い古された論点。僕には、そういうことへの恨みがある。それに、それを反面教師として、自分はそういった生き方はすまいと強く思う。

彼らは当然のことのように、これまで働いてきた数十年を盾に、横暴な振る舞いに出るのではないかと、僕は想像している。退職してもすぐに体力は落ちないから、意気盛んに電車の中で怒号を上げるお年寄りが増えるだろうと想像する。「ええ若いモンが、何座っとんねん!」(関西弁ですいません)、その時、僕は断固戦うのだ。そのための準備を今からするのだ。白い目で見られようと怒鳴られようと、僕は僕の信条を突き通そうと思う。

ああ、体が痛む・・・。

ここからは追記です。

sshi君から教えていただいたURLを見ましたが、同じような話ですね。言及日記も多いようなので、どこかで目にしている可能性は無きにしもあらず、と言った感じ。あと書き忘れてましたが、僕は老人になったら(そこまで生きられるかどうか分かりませんが)、電車でもバスでも立ち続けます! 譲られても、年寄り扱いするなと喝破してやりますよ。

あと僕が言いたいことはもう一つあって、座りたいのなら「座りたい」と言えばいいということです。推して知るべし、とか、言わずもがな、とか、そういうはっきりしない圧力が、僕は嫌いなのだ。あと、自分の健康状態と比べて明らかに疲弊し切っているお年寄りが居れば、他の人に座られないことを確認して、他の車両に移ります。と、言い訳がましいぜ。言い訳ついでに、見出しも変えました。