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橋本國彦「交響曲第2番」

信時潔の「海道東征」が戦前・戦中までの日本のオーケストラ作品の一つの到達点とするなら、戦後すぐの大きな成果は「新憲法施行記念祝賀会」のために委嘱され生み出された橋本國彦の「交響曲第2番」であろう。

橋本國彦は戦前・戦中の東京音楽学校の教員であり、矢代秋雄黛敏郎の師でもある。いわゆる「皇紀二千六百年」の奉祝曲を書いてもいる。戦後の昭和21年に東京音楽学校を自発的に退職をしているが、彼なりの戦争へのけじめの付け方だったのだろうか。

その彼が新時代の象徴とも言える憲法のための音楽を書いたのだ。聴き手に歩み寄る親しみやすい旋律。幾度と繰り返されても飽きないフレーズ。重厚ではなくとも色彩で魅せるオーケストレーション。この曲なら、信時潔の「海道東征」と比べても今の時代と地続きであるのだし、もっと取り上げて良い作品だと思う。なぜ取り上げられてこなかったのか、その理由を考えているが、日本の歴史の特徴でもある突然の断絶によるものではないかと思っている。

日本の歴史は、何度も断絶を経験している。五・一五事件政党政治が終わった時。二・二六事件で内閣の影響力が失墜した時。降伏文書に調印し占領が始まった時。サンフランシスコ平和条約に調印し占領が終わった時。

橋本のこの交響曲が書かれたのは、降伏文書調印から、占領が終わるまでの間だ。いわゆる「人間宣言」、国家神道が終わり、戦犯が収監され、戦争協力者が公職追放され、文部省が「民主主義」を教科書として作成し、中学1年生向けに「あたらしい憲法のはなし」が作られ、国民が荒廃した状態から立ち上がろうとしていた頃だ。しかし、占領の終了に向けて政府は態度を変化させていく。戦前・戦中の体制に戻そうという動き、いわゆる「逆コース」。警察予備隊の創設、戦争犯罪人安倍晋三の祖父・岸信介など)の復権、軍人顕彰の動き、占領終了後には全国での護国神社名の復活、教科書「民主主義」も取り消され、「あたらしい憲法のはなし」も使用を停止される。

日本国憲法の施行記念祝賀会のために書かれた橋本國彦の「交響曲第2番」は、この変化の中で、教科書「民主主義」などと共に無視され続けてきたのではないだろうか。

橋本がこの作品について語った言葉が残っている。

「この曲は平和の喜びの歌と舞踏と行進を、ソナタ形式と變奏形式とによつて表現されてゐる」

橋本國彦は占領が終わる前の1949年に44歳で世を去る。新時代への願いを作品に彫り上げた充実の中で亡くなったと思いたい。そして、演奏機会が作られることなく長らく無視されてきたこの状況を打破し、彼の思いに報いたいではないか。

初めてのCD化となったこの録音は、橋本が教鞭をとった東京音楽学校を前身にもつ東京藝術大学のオーケストラによって演奏されている。これから、まだこれからなのだと思う。「海道東征」よりも再演が必要な作品だ。

マタチッチ/NHK交響楽団のブルックナー、好き

マタチッチという指揮者は捉え方が難しい、そんな演奏をする。一本調子な金管が轟く裏で、弦楽器が丁寧にフレーズを積み重ねていたりする。ああ、そんな歌い込み方があったか、と気付かされる。NHK交響楽団とのブルックナー交響曲第8番でも、そんなひと時を得られた。静まった時の木管には華やぎがあって、当時のN響からすれば善戦している。かつて聴いた時は、金管の表現の要素が、音量変化以外になかなか見つけられなかったけど、今聴くと、変化をつけようとする意志を受け取ることができたように思う。

最近は昔によく聴いたCDを引っ張り出しては、車の再生装置で聴き直している。前の車はスピーカーが貧弱だったのかな。今の車では何を聴いても新鮮。暫くはブルックナー8番で攻めてみたい。明日はバルビローリ指揮のハレ管弦楽団で出勤しよう。

源氏鶏太『家庭の事情』

源氏鶏太獅子文六を読むと、当時の生活様式や物価、漢字送り仮名などがよく分かって面白い。この源氏鶏太の「家庭の事情」を読み終えて、映像化できそうと思ったら、4回くらい映画やドラマになっているらしい。

思ったこと

グロービスは「クリティカル・シンキング(批判的思考)」という言葉を嬉々として使うが、グロービス関係者はそのツールを自分たちの生活に直結する政治を対象として使うことはない。

トヨタの「見える化」や「5回のなぜ」への評価は低くないのに、そのプロセスを政治に持ち込むことをトヨタが推奨しているとは思えない。

本当に普遍的な良いものなら、どんな組織でも、どんな場面でも躊躇なく取り入れられるはずだろうに、そうなっていないのはなぜだろうか。

クリティカル・シンキング」や「見える化」などの目的が、実のところは経営者に都合のいい道具だからなのだと思う。何か考えている風に見せるため。プレゼンを通すため。労働者を監視するため。経営者が考えるべき事柄を労働者に押し付けるため。

日本の大人って、面倒くさい。仮面ライダーや戦隊モノの世界で生きたいな。

「半分、青い。」を楽しんだ

半分、青い。」最終回でした。

ドラマ内の時間の使い方に難あり感はあって、ネットで言われてる文句には頷いてしまって、可哀想な扱いの役も多くて、まったくもってツッコミどころの多いドラマなのだけど、それでも、僕の時代を追いかけたドラマだと思えて感情移入できた。現代の40代の人生全てを追いかけた朝ドラって、初めてじゃないか。楽しい半年でした。

このドラマは美術がすごいと思った。かつて自分が使っていたツールや、見た風景や、習慣のようなものを追いかけてくれていた。それらのおかげで、その時の雰囲気を僕は思い出せた。僕が「半分、青い。」への共感を失わなかったのは、それが大きな理由だと思う。

僕より年配の同僚は「ひよっこ」から懐かしさを得ていた。そして僕は「半分、青い。」に。僕より後の年代の同僚は、どちらのドラマも苦手と言っていた。特定の年代だけに訴求度の高い朝ドラは苦労する。歴史を描く朝ドラの方が、人気を得やすい。その点で、次の「まんぷく」は成功するだろうと思う。

だから(?)、「半分、青い。」は、冒険的なドラマとして、成果を出したと思いたい。ゴールの見える歴史もの朝ドラの安心感も素敵だが、先の見えない物語も必要なのだ。

なので、北川悦吏子にはまた朝ドラを書いて欲しい。止まらないスズメの生き方みたいに。ドラマ内の時間の使い方や、終盤への駆け上がり方など、やり残したことはきっとあるだろうし。「おひさま」「ひよっこ」の岡田惠和も、「ちゅらさん」の時はバタバタしてた(「似ている!」のセリフとか、ゆがふのシーンとか)印象あるよ。

あと役者が良かった。永野芽郁、すごいな。映画「ミックス」を観た時も思ったけど、色んな役をできる。まだ19歳。すごいな。