演奏家に忘れて欲しくないこと
演奏家の皆さんに忘れて欲しくないことがある。それは、音楽に対する「愛情」と、愛する音楽を伝えていこうという「熱意」と、それを裏付けるための「探究心」。もちろん指揮者も演奏家に入る。
歌舞伎の話をいきなりするが、例えば「勧進帳」という演目がある。Wikipediaによると初演は1840年らしい*1。今でも演じ続けられている演目だが、誰が作ったものなのかは知らない。ただ現代で「勧進帳」を見に行く場合、もちろんその物語内容や装置が好きということで見に行くこともあるだろうが、見に行く理由の中心的なものは、弁慶を演じる役者だろう。例えば松本幸四郎。そういう場合「松本幸四郎の勧進帳」と説明すると思うのだ。こういった演劇的なものや、クラシック音楽のような再現芸術に接する場合は、その媒介者となる演者や演奏家の存在が、受け取る側に取ってみれば重要な意味を持つ。
そこでかつて金さんがブログに書かれていたことで、
というのが、今まで引っ掛かっていた。この後に確か、ベートーヴェンの音楽はベートーヴェンのものであって、僕のものではないと続いていたと思う。そういう考えが理解されない、と嘆いてもおられたはずだ。
しかし、ベートーヴェンは自分の音楽を、自分のためだけに書いたのだろうか。特に第九を。歓喜のために、それを聴くであろうウィーンの人のために、全人類のために書いたのではないだろうか。その音楽が流れる時、ベートーヴェンの音楽は、その音楽を聴く人のものになる。ベートーヴェンの音楽に向かうのは、その音楽を聴く人の気持ちだ。美しいものに出会えば、その感動は自分の中に染み付けられ、どこか生まれ変わったような心持ちになれることはないだろうか。そうなった時、“ベートーヴェン”は聴いた人の持ち物になる。僕が音楽は個人的なものと考える主たる理由がそれ。
そして、その音楽を伝える演奏家や指揮者にとっても同じこと。美しい音楽、愛する音楽が、演奏家の中に瑞々しく刻印され、その音楽を伝えるための熱意が迸り、そして誰にでも分かるようその思いを提示する。素晴らしい役者に出会った時もそうだ。役者が役へ没入する姿に接して、感情がこちらが迫ってくるような思いを得て、僕らは感動するのではないか。演奏されてこその音楽であり、演じられてこその劇なのだ。「聖響さんのベートーヴェン」という表現を受け入れらないという態度は、演奏される曲の一回性を拒否していることになりはしないか。そういうことであれば、この世界にオーケストラなんて何個も必要ないことになる。それでいいわけがない。その音楽に、その劇に生命を与えるのは自分なんだという表明をするためにも、「松本幸四郎の勧進帳」のように、「金聖響のベートーヴェン」「金聖響の“英雄の生涯”」と宣言して欲しい。それは、創造に携わる者の「署名」みたいなもの、自分に責任を背負い込む「決意」のようなもの。そう表明することは、ベートーヴェンの存在の崇高さを薄めるものでも、冒涜するものでもない。今のままでは、ベートーヴェンただ一人に音楽の責任を押し付けているだけだ。媒介者としての責任を忘れてはいけない。