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ジャズの黎明期とガーシュウィンの活動について

ラプソディ・イン・ブルー」の説明として、「ジャズとクラシックの融合」と言葉にされることが少なくない気がするが、同曲が作られた時期の「ジャズ」って何なのだろうと思い、かつて調べてみた残骸をメモしておく。ジャズ的な音楽に触発されたと思われる作品などがあれば、追記していきたい。

西暦 ガーシュウィンの活動 ジャズ関連の動き 他のクラシックの作曲家の活動
1898 9月26日、ニューヨークのブルックリンにてガーシュウィン誕生 スコット・ジョプリン(Wikipedia)のラグタイムの多作期始まる。
1899
1900 この頃にニューオーリンズ・ジャズ(Wikipedia)が発生。
1901
1902
1903
1904
1905
1906
1907 この頃に友人のヴァイオリン・リサイタルを聴き、音楽に関心を持ち始める。
1908 ドビュッシーが「ゴリウォーグのケークウォーク」を作曲。
1909
1910 この頃にニューオーリンズ・ジャズがシカゴなどに伝播。
1911 この頃にピアノと和声を習い始める。
1912
1913
1914 レミック音楽商社に入社。
1915
1916 オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドの結成(Wikipedia)。
デューク・エリントンがピアニストとしてデビュー。
1917 歌曲「スワニー」 オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドがレコーディング。「Dixie Jass Band One Step」と「Livery Stable Blues」の2曲。
スコット・ジョプリン死去。
1918
1919 弦楽四重奏のための子守歌
ミュージカル「ラ・ラ・ルシール」
1920 ポール・ホワイトマン楽団の結成。グロフェがアレンジで参加。
この頃にニューオーリンズの歓楽街が閉鎖し、音楽家が他の地域へと移動する。
1921 アーロン・コープランドがパリへ留学し、ナディア・ブーランジェに師事。
1922 フレッチャー・ヘンダーソン楽団の結成。 ミヨーがアメリカを訪問。
1923 歌劇「135番街」 フレッチャー・ヘンダーソン楽団にコールマン・ホーキンスが入団。 ミヨーがバレエ音楽「世界の創造」を作曲。
1924 ラプソディ・イン・ブルー
ミュージカル「ジョージ・ホワイトのスキャンダル」

この頃から独学でオーケストレーションを学び始める。
アーロン・コープランドがパリから帰国。
1925 ピアノ協奏曲 ヘ調
ミュージカル「つまさき」
アンタイルが「ジャズ交響曲」を作曲。グリューンバーグが「ジャズ組曲」を作曲。
1926 ミュージカル「オー・ケイ」
3つの前奏曲
ジェリー・ロール・モートンがビクターと契約。
マイルス・デイヴィス誕生。
グロフェが「ミシシッピ組曲」を作曲。
1927 ミュージカル「ファニー・フェイス」 デューク・エリントンがニューヨークでバンド活動開始し、コットン・クラブと契約。
1928 この年にパリ、ウィーンなどを訪問。ストラヴィンスキーラヴェルシェーンベルクと面会か。
「パリのアメリカ人」
マルティヌーが「ジャズ組曲」を作曲。
1929 ミュージカル「ショー・ガール」
1930 ミュージカル「ストライク・アップ・ザ・バンド
ミュージカル「ガール・クレイジー
ライオネル・ハンプトンルイ・アームストロングのレコーディングに参加。
キャブ・キャロウェイ楽団がコットン・クラブに出演。
1931 映画「デリシャス」 ラヴェルが「ピアノ協奏曲 ト長調」を作曲。グロフェが組曲グランド・キャニオン」を作曲。
1932 キューバ序曲」 ベニー・グッドマン楽団の結成。
1933
1934 ショスタコーヴィチが「ジャズ組曲第1番」を作曲。
1935 歌劇「ポーギーとベス」
1936 カウント・ベイシー・オーケストラの結成。
ライオネル・ハンプトンベニー・グッドマン楽団に参加。
ルイ・プリマ「シング・シング・シング」
1937 映画「Shall we Dance」
7月11日、脳腫瘍で死去。
1938 ベニー・グッドマン楽団がカーネギー・ホール公演。 
1939 ディジー・ガレスピーキャブ・キャロウェイ楽団に参画。
1940 クロード・ソーンヒル楽団の結成。アレンジャーにギル・エヴァンスが参画。
1941
1942
1943
1944
1945 ストラヴィンスキーが「エボニー協奏曲」を作曲。
1946
1947 マイルス・デイヴィスが初のリーダーセッションを行う。

これを見ると、「ラプソディ・イン・ブルー」が書かれた頃というのは、グループで行う形態のジャズが形成されつつある時期であり、ガーシュウィンが接した「ジャズ」的なものには、もっと原始的なものがあったのではないかと思う。それはどういう響きの音楽だったのだろうか。

ガーシュウィンの伝記などでは、彼はポピュラー音楽の作曲家であり、クラシカルな技法を駆使した作曲家への羨望があったというような表現がある。パリを訪問した際には、ナディア・ブーランジェ、ストラヴィンスキーラヴェルなどと面会していると言うし、「ポーギーとベス」以後すぐに亡くなってしまったのは惜しいことだと思う。