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演奏会批評に存在意義はあるのか

僕も勝手なことを頻繁に書くので人のことは言えないのだけど、クラシックのいわゆる演奏会批評というものに存在意義はあるのだろうか、と疑問に思っている。

書評なら、どんな酷評であれ、批評を読んだ人間がその書籍を手にし読みさえすれば、批評に反論したり共感できたりする。美術批評を読んだ人間は、評の対象となった作品にまた出会い、鑑賞者として参加することが出来るだろう。CD批評なら、自分自身で身銭を切って同じ立場で何かを語ることが出来るはずだ。ほか映画批評も、単発の公演でない演劇興業への批評でも、批評に接した人間が作品にアクセスする可能性は残されている。

それではクラシック*1の演奏会批評はどうだろうか。

演奏会批評の対象となるクラシックの演奏会は、他の分野の芸術やエンタテインメントとは成り立ちが大きく異なり、音楽誌や新聞に掲載される頃には既に終わってしまっている。再現不可能なものなので、存在がなくなってしまっていると言ってもいい。つまり美術作品の展覧期間が終わることとは性質が異なり、批評を読んでから作品・演奏行為に接することは二度と出来ないのだ。書かれた批評に反応できるのは、その演奏会に参加した多くても2,000人にも満たない観客だけだ。そんなささやかな対象に向けての批評がどんな役割を成すかと言えば、稚拙に例えるなら、観客の感動体験の赤ペン先生だ。自分が良いと感じた演奏会を承認してもらうためのもの以上の意味はない。それさえも意味と言って良いものかどうか。そして承認されなかったら、これは悲劇だ。個人の大切な感動を、心ない酷評で数日後・数ヶ月後に破壊される。感動の体験が深遠で温かなものであるほど、その破壊行為から受ける傷は深い。

もし演奏会批評を手がけるのならば、その書き手はどんな美を求めているかを明らかにする必要があるだろうと僕は思う。どんな音楽も受け手の捉え方で形を変え、個人個人それぞれの音楽体験を所有することになるのだから、受け手の一人でもある批評家が何者なのかを表明することで、その演奏会批評は一個性を獲得できる。その批評に接する人間も、批評から一個性を感じられさえすれば「私はこの批評とは違うものを得た」と自信を持って相対することができるのではないかと思う。

例えば「音楽の友」の批評のページの、各批評家の言ってることに一個性があるかどうか。どんな人間が、どんな美意識をもって対象に臨んだのかが分かる批評があるかどうか。全力で耳を傾けた時間の記録、その戦いにも似た生業の痕跡が伝わってくるものは滅多にないと言っていい。そこにあるのは訳知り顔で、あまり目にしない単語で人々を煙に巻くことで足並みを揃えた、無個性なものたちばかりだ。音楽の神や作曲家の代弁者とでもなっていつもりなのだろうか、高地に位置して一般論的に語られる批評に僕は辟易する。

傷だらけの演奏があるだろう。聴くに値しない演奏会があるのも本当だろう。けど、それをその場に居ない人々にまで伝えることに意味はあるのだろうか。とても疑問だ。そして僕自身も、批評家ではないけれど反省する。

*1:オペラのような複数日に興業が続くものは除く。