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題名のない音楽会

今朝の「題名のない音楽会」。青島広志の言っていることは、極端なのにしっかりと伝えたいことを捕まえている。「知って欲しい!」というパッションが溢れそうだ。この人のこういうところに惹かれる。それとは対照的に佐渡裕の言うことは、まず見当外れだし、自分を物識りで恰好良く見せようという意図が見え隠れする。こまめに音楽用語を織り混ぜようとする。「即興みたいに」、「シンコペーション」、「アップ」。そしてそれ以外の佐渡裕が言っている意味を拾っていくと、「元気よく」「盛り上げて」「良くなった」「運命的な」「残酷に」という陳腐なものばかりだ。佐渡裕でなくてはならない理由も、この人の魅力も何もない。楽句を歌う時も、フレージングを伝えるためではない。歌えるんだという事実をただ観客に伝えるためだ。それに佐渡裕はいつからこの体躯を無駄に使うようになってしまったのだろう? 佐渡裕のあんな力のない指揮を、僕は泣きたくなるほど残念に思う。10年前はもっと汚い指揮だった、けど、佐渡裕が持つ彼固有の躍動が演奏者に伝わっていたと思う。

この人は歳の取り方を間違ってはいないか。兵庫のオーケストラのような若い人に囲まれる環境を求め、大人の自分に、若い人よりは多い経験に酔ってはいないか。教育は麻薬的だと言ったのは小澤征爾だが、小澤が世界のトップ・オーケストラであるボストン交響楽団を率い続けながら少しずつ教育に携わってきたことと比べると、佐渡の活動の中心は自分の音楽家としての成長のための活動ではないように思える。兵庫のオーケストラで佐渡裕が真剣な緊張を強いられることもないだろう。シエナ・ウインド・オーケストラの若い観客層は常に佐渡を賛美するだろう。その教育・啓蒙という麻薬から離れられなくなっているのだろう。そして佐渡は成長を止めている。悲劇的な話だ。