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クラシック音楽の、作品を聴くか演奏を聴くか

またぼんやりと考えながら、クラシック音楽について書いてみたりする。

僕は長い間クラシック音楽を聴いてきたのだけれど、その間に訊かれることが多かった質問が「クラシックの中で何が一番好きですか?」という質問。そう質問された時期それぞれで僕の聴き方や嗜好は異なっていることが多く、またかつて好きだったものは蓄積されてきているので、ある瞬間には「フランク・ブリッジが一番好き」とも言えるし、『バッハの「音楽の捧げ物」が一番好き』も全然嘘ではないし、「バーンスタインが一番好き」というのも僕にとっては正直な意見なわけで、いつも回答に困っていた。そこで結局、「何でも好き」と不真面目と捉えられかねない回答をし続けてきたのだ。先日何かの会話で出たのだけど、例えば「エルガーが一番好き」と言ってしまうと、それ以外のたくさんの好きなものに申し訳ないような気がするというか何というか。端的に言えば八方美人なわけなのだけれど。

「僕の聴き方や嗜好」と上に書いた。そこで、今までの僕の聴き方の変遷を思い出してみようかと思いながら躊躇中。はっきり言って、時間がかかるのが嫌なのと、羞恥心が邪魔をする。お邪魔することの多いid:intelligentsiaさんが「100のメニューより、1つの偶然を - To Walk with Wings」というエントリを書かれていて、僕もまさにその通りと賛同するわけで、クラシック音楽という大きな海へ漕ぎ出す、「始めの場所」も「手段」も「行き先」も人それぞれ違うのだと思う。偶然を信じて好きなものを順繰りに辿っていく作業を続けていくプロセスこそが、クラシック音楽を聴くことなのではないだろうか。だから、100曲と区切って作品を並べる作業自体はとても楽しいけれども、他の人の作品リスト通りに聴き進んでクラシック音楽を好きになるかというと微妙だ。かえって嫌いになる可能性もある。そういった作品リストを作ることは、結局は作品リスト作成者のクラシック音楽への関わり方の表出でしかないと割り切っておいたほうがいいだろう。長々と何を書いているのか僕も分からないが、僕個人のことを語る前の言い訳めいたものっぽい雰囲気になってきたので、丁度いいと諦めて僕の聴き方の変遷を続けて考えながら書いてみる。

色々な聴き方をしてきたけれども、大雑把に分けるなら「作品を聴く」か「演奏を聴く」かだ。どちらもクラシック音楽の作曲家の音楽を聴いているわけだ。その中身を考えてみた。

決まった「作品」を聴く

僕が一番はじめのほうに聴いたクラシック音楽モーツァルト交響曲第40番」。その時はその音楽が何かすらも分かっていなかった。指揮者という役割の人が居ることも知らず、オーケストラという装置も知らず、ただそういう音楽があるということだけが分かる状態で、自宅にあったLPを聴いていた。そして僕は「交響曲第40番」の冒頭のメロディを口笛で吹けるようになっていた。その時は演奏者の存在自体について分かっていないわけだから、僕が聴くのはモーツァルト交響曲第40番」という作品でしかない。落語に例えるなら、噺家の名前も分からないまま、古典落語のストーリーを覚えてしまったようなものだろうか。それが落語というジャンルであることすらも分からないままテープで聞いているような感じ。どんな感じだよ。『「寿限無」が好き』という好きになり方は有り得るから、そのような感じで間違っていないと思う。

僕がそういう風に好きになっていった他のクラシック音楽には、ワーグナーの歌劇「タンホイザー」の行進曲や、ベートーヴェン「ロマンス」、シューベルト「楽興の時」、スッペの喜歌劇「軽騎兵」序曲なんてものがある。それを聴き始めた頃は、曲名以外の情報には関心がないし、曲名以外に情報があるなんてことを知らなかった。その頃に僕がもしコンサートに行こうとしたとするなら、これらの曲の有る無しでしかコンサートを選び取れなかったと思う。そして今でもクラシックのコンサートに足を運ぶ人の大部分が、こういう状態なのではないかと思う。『「未完成」を聴きたいんです』や『「新世界」しか聴かない!』とか、ね。それはそれで楽しみ方の一つだ。けれど、演奏者に関心を持たないまま、覚えている音楽をそのままなぞる聴き方は、僕の主観で言ってクラシックの面白さの半分くらいを知った程度だろうか。こういう時に楽しいのは、やはりタイトル付きの作品だった。交響曲なら「運命」「田園」「未完成」「新世界」。ベートーヴェンピアノソナタなら「悲愴」「月光」「熱情」。「どこが熱情なんだろう?」とか思いながら聴いていたな、そう言えば。

決まった作品の「演奏」を聴く

続けての段階は、「演奏」面に耳が行くようになった頃。幸運にも僕はピアノのレッスンに通っていたので、ベートーヴェンピアノソナタを弾くようになる。自分にとっての決まった作品だった「月光」や「悲愴」が、僕の稚拙なテクニックでは、如何にあやふやな響きで頼りない音楽になってしまうのかを思い知る。作品を決まった形にするためのテクニックの必要性、演奏家の存在に思いを馳せるようになる。「僕の中の決まった作品を演奏していたのは誰だったのだろう?」とCDのジャケットを見ると、例えば「悲愴」では「ヴィルヘルム・ケンプ」と書いてあった。「そうか、これはケンプが弾いているのか。変な名前だなあ」と、まあ妙な感想を持ちながらも、生きた人間が演奏している事実を知って以降、僕は「演奏」を聴けるようになった。ヴラディーミル・アシュケナージの弾く「悲愴」の趣味の良さや、エミール・ギレリスの弾く「悲愴」の武骨な雰囲気の違いを楽しむようになった。僕が通っていたピアノ教室の教師は、色んな演奏家のテープを持っていて、レッスンの度に貸してくれた。少しエキセントリックな教師だったが、この点には大変感謝している。そして僕の「演奏」を聴く耳は養われていったと思う。それに実際に日々ピアノに触れていたことも大きかったろう。同じようにドの音を鳴らしても、アシュケナージのようには鳴りはしない事実を体感していたのだから。

他にも色々な切っ掛けはあったろうと思う。CMに使われたクラシックを集めたCDをカセットテープに落として楽しんでいたのだけど、テープに落とした時には演奏者が誰かなんて全く気にしていなかった。そのテープの1曲目がドビュッシーの「海」の第1楽章で、全曲を聴きたくなってエルネスト・アンセルメという指揮者がスイス・ロマンド管弦楽団というオーケストラを指揮したCDを買って聴くと、自分が覚えている雰囲気とは全く違う響きがしてとても驚いた。この驚きも、「演奏」に耳の焦点を合わせていく切っ掛けになったと思う。あとは同じアンセルメ/スイス・ロマンド管弦楽団の演奏するムソルグスキー展覧会の絵」の冒頭のトランペットの妙なヴィブラートに気持ち悪さを感じたのも思い出した。クラシックを聴きながら、そんな違和感を得るようになると、「演奏」に関心を寄せられるようになるのかも知れない。落語で言えば、たまたま足を運んだ高座で聞いた「寿限無」の雰囲気が、自分の記憶と微妙に異なっているような感じだろうか。何て適当な比喩なんだ。

新しい「作品」を聴く

続けては、自分にとって新しい作品を聴くという楽しみ。聴いたことのない作品を聴く。聴いたことのない演奏家を聴く。そのこと自体に楽しみを見出すようになった。どんな演奏にも作品にも個性があって、それを楽しむ方法を模索しながら、「とりあえず受け取ってみよう」とする聴き方。これが今の僕かも知れない。こういう聴き方にシフトするようになる切っ掛けは、例えばベートーヴェン交響曲。「英雄」「運命」「田園」「合唱付き」のタイトル付きの交響曲しか聴いていなかったのだけど、たまたまカップリングで「第4番」が入っていたり、別の作曲家の別の作品と一緒に「第8番」が入っていたりすると、勿体無いので一通り聴くことになる。最初は良いとも悪いとも思わないのだけど、だんだんと曲の響きに慣れてくる自分が楽しくなってくる。あとは名前を聞いたことのない作曲家。僕にとってはブルックナーがそうだったけど、名前を聞いたことのない作曲家の作品を聴くことで、クラシック音楽の果てしない広がりを感じることが出来るようになったし、まだ出会っていない素晴らしい作品や演奏があるのではないかという期待感を持てるようになった。この流れで現代の音楽などにも手を出しては、作曲家が考えたことや、聴いたことのない響きに浸る楽しみを覚えるようになった。落語で言えば、聞いたことのない落語だったり、新作落語だったり、だろうか。

休憩。

クラシック音楽」というジャンルに属する音楽は、それこそ星の数ほど存在している。それを全部聴くことはきっと無理だろう。けれども、その母数が多い分、今残っている音楽作品の訴求度はかなり高いと思うのだ。色々な作品を聴き続けることは、自分の好きなものを探す旅のようなもの。『ふん、「新世界」なんてもう卒業だぜ』みたいな勿体無い態度をしていた頃もあった気がするが、今はそうは思わない。多くの作品と出会うことで、自分の中の「決まった作品」が別の輝きを持ったり、新しい輝きを見出す術を身につけられるようになった気がしたりしたのだ。「新世界」にもフレッシュに付き合える。ああ、疲れてきた、書くのが。

中山康樹という人が「マイルスを中心に聴いていけば、ジャズを芋蔓式に俯瞰できるようになる」みたいなことをどこかで書いていたように思う。マイルスを聴けば、ギル・エヴァンスも、ビル・エヴァンスも、ウェイン・ショーターもハンコックも、チック・コリアキース・ジャレットも、トニー・ウィリアムスもゲリー・マリガンも付いてくるというような話。クラシックでも、そういう適当な道標になるような存在の演奏家なり作曲家が居ればいいのだけどな。難しい。また今度。