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芸術劇場

先週の芸術劇場を見ている。

森田美由紀アナウンサーと金聖響の二人で、ピリオド・アプローチについて盛り上がる。サイモン・ラトルパーヴォ・ヤルヴィダニエル・ハーディングとVTRで紹介して、スタジオ映像に戻って森田アナウンサーの「今、勢いのある指揮者の方がピリオド奏法に積極的に取り組んでらっしゃる」の言葉でまず一度笑った。なかなかテンポの良いプロモーション。

ところで、番組の中の話によれば、金さんのピリオド・アプローチとの出会いには、サイモン・ラトルの演奏に関わりがあるらしい。1993年、ラトルが金さんの通っていた学校を急に訪れ、モーツァルト交響曲第38番「プラハ」を演奏したことが直接の契機らしいのだ。1993年となると、金さんはアメリカのニューイングランド音楽院大学院に在籍中となるそうだ。ふむ。ラトルがエイジ・オブ・インライトゥンメントと関わるようになったのはいつ頃からだったろうか・・・。録音は1997年だったが、その前から取り組んでいたということにはなる。ネットを徘徊してみると、バーミンガム市響とのハイドンではピリオド的な考えが盛り込まれているそうだ。これが1994年の録音になる。それよりも前、と。

遠い記憶を辿るが、金さんが現代楽器でのピリオド・アプローチに取り組む切っ掛けは、いわゆる古楽演奏の録音を聴いて、それへの批判的な立場から、20世紀の豊かな感情表現とピリオド・アプローチ的なものを融合させたいという話だったと思うのだが、ソースが見付からない。

番組の中では、ピリオド奏法を「ビブラート」「アーティキュレーション」「テンポ」の面から説明している。特に「アーティキュレーション」の説明の際、「スタッカート」について。

例えば音符に点が打ってあるとしましたら、「スタッカート」と言いますけど、現代では音を跳ねるように弾く、スタッカート、飛ばして弾く。当時は音を分けるという意味で考えられていた。という風に、楽譜の読み方までも違う、と。

なかなか不思議な言及でした。「スタッカート」についての考え方は、現代でも同じではないのか? 伊吹新一氏のリハーサルを拝見したことがあるが、スタッカートが表現できていない箇所で、「お持ち帰りのたこ焼になってるよ!」とおっしゃっていて、何のことかと思えば、お持ち帰りの入れ物の中でたこ焼同士が引っ付いている、つまり、音と音が引っ付いてしまっているということだった。それに手元にある1956年発刊の下総皖一・橋本國彦「模範音楽通論」での「スタッカート」の項では、そのまま「分割奏法」と訳されていて、「音符と音符の間に透間を持たして奏するものである」とある。海外ではどうなっているか知らないが、日本ではそういった形で受容されてきたはずなのだ。ふと思い出したが、僕の高校時代の音楽の先生や、学生時代の学生指揮者の中には「スタッカートは音符を半分にするという意味です!」と、とんでもない説明をしている者もいたな。半分にすることを求めるのなら、半分に書くよ。

話が逸れた。さて、芸術劇場では最後になってアーノンクールのビデオ映像が登場。アーノンクールの言葉はこういう内容。

18世紀の作品を現代の聴衆に向けて演奏する時、私はいつも悩みます。歴史に忠実なだけの演奏が聴衆のためになるのか。それではまるで博物館ではないか? 私はそんな演奏はしたくない。音楽の生命を伝えたいのです。そのためにあらゆる方法を試みています。原点を知りそこに生命を吹き込むのです。

悩みつつ、その場での選択に責任を持つ態度が伺える。ピリオド奏法について盛り上がった後で、この言葉が飛び出したので笑えた。オチみたい。

この直後の金さんの動揺が面白いw

最終的には音を出す人間が、その、音楽という青写真・楽譜から、生命という言葉をお使いになりましたけど、エネルギーだったりスピリットだったり命を吹き込むという作業をするわけですから、書いてある通りというだけではなくて、その時の、何か降って沸いてきたような、この、あの、引き込まれていったり、「instint」*1っていうか即興的なものであったり、そういうとこに行くんでしょうね、ここまで突き抜けている方ですから。

*1:きちんと聞き取れず。