Profile Archive

| 作編曲 | Music | Classic | Jazz,Inst. | Pop,Rock | Soundtrack |
| | メモ | 呟き | テレビ・映画 | Hatena | 未分類 | 購入CD | 購入本 | 購入DVD |

誰のために音楽を・・・

何のための音楽をするのか。誰のために音楽をするのか。大き過ぎる問いだけれども、音楽に携わる者なら常に自己に問いかけ続けなければいけないことだろう。誰に伝えるために音楽をするのか。伝えるものは何なのか。音楽の歓びか? 楽しみか? 陳腐に「音楽を好き」という気持ちか? 何にしろ、相手がいなければ実現不可能なものが音楽なのだと思う。同じ空気、同じ場所、同じ時間を、その場に居合わせた人間達が共有する。他の芸術や娯楽も同じように受け手の存在を欠くことはできないが、絵画や彫刻は時間の共有を強いることはない。詩や戯曲、オペラやミュージカルには言葉がある。時間の共有を強いる、いや、共有することをお願いする音楽。言葉のない音楽。その音楽の担い手たちこそ、貪欲に攻めの態度で、聴き手を呼び込み続けないといけないのではないか。

そういう意味では、オペラの存在は大きい。この日本でも、続けていく意義があると思う。音楽を言葉で伝えていく現場に、器楽奏者達も責任を持つ状況を失ってはいけない。声楽曲も同じだ。詩の力を借りることで、伝える内容が限定される利点を意識する。

音楽が伝えることの内容。それは受け手によって異なる。受け取ったものがどういうものか相対化するのは、受け手の責任に委ねられる。下駄を預ける、とでも言うか。こういう音楽だからこそ、クラシックは難しいと思われているのだろう。どう受け止めれば良いのか分からない、そう思う人が多いのではないだろうか。断言してしまうが、受け止め方に決まりはないのだ。他の人がどう思おうと、好きと思える音楽があれば、それは素晴らしい音楽なのだ。

例えば、悲しいとされる音楽がある。モーツァルト短調交響曲とか、チャイコフスキーの「悲愴」とか、「ラ・ボエーム」の幕切れでロドルフォが「ミミ」と呼ぶ部分とか。けど、聴き手によっては受け止め方は様々だろう。例えば、未来に期待を持っている人が聴けば、過去の悲しい想い出を振り返るような達観した感じで耳にするかも知れない。悲しみのどん底に居る人が聴けば、戻って来れないくらい打ちのめされるかも知れない。悲しみの種類も様々だ。死の悲しみ、恋愛の悲しみ、喪失の悲しみ。一つの音楽を、100人の人が聴けば、100種類の音楽が存在する。

反対に、明るいとされる音楽でも同じだ。メンデルスゾーンの「イタリア」とか、シャブリエの「楽しい行進曲」とか、グロフェの「ミシシッピ」とか。爛漫さを感じる人も居れば、涙をこらえる空元気のように感じる人も居るだろう。こちらも100人の人が聴けば、100種類の音楽が存在することになる。

こういう風に、受け止め方が異なるのが普通だということを、発信者は丁寧に伝えていかねばならない。どんな受け止め方も、どんな楽しみ方も、クラシック音楽は許容してくれるはずなのだ。

ただただ無心に、「聴いてごらん」という呼びかけを発し続けなくてはならない。作曲家について伝えたい。演奏する人間の思いを伝えていきたい。色んなことを言葉で伝えていこう。妙な役割分担や、プロアマとか、根拠のない決まりに縛られる必要はない。鑑賞者も演奏者も少ない中で、プロを特権化する意味は無い。音楽が好きなら、躊躇なく好きと言うだけでいい。多くの人に聴いて欲しいのだ。演奏するだけが音楽なのか? 違う、人間が音楽なのだ。