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ヴォーン・ウィリアムズ「交響曲第5番」

ドメインパーキング

山尾好奇堂の山尾さんが、ヴォーン・ウィリアムズの「交響曲第5番」について書かれている。僕はこの曲でヴォーン・ウィリアムズに開眼したと言ってもいいくらいこの曲が大好きなので、興味深く読ませていただきました。

この曲が初演された当時は第二次世界大戦中であり、またこの作品の一つ前の交響曲「第4番」が激しい表情を持っていたということもあり、この「第5番」の安らぎに満ちた開始に、初演に立ち会った人々が驚いたということはどこかで聞いていました*1が、今回紹介されたエドワード・ヒース氏の自伝からの文章にも大納得!

広大なホールの中にいた少数の聴衆たちは、曲が進むにつれて心に希望の火が灯ってきた

この曲の第1楽章には、単に平穏を待ち望んでいるような姿勢ではない、安らぎを手にするための静かな戦いがあると思うのです。どこまでも繋がっていく歌の線、それは跳躍があっても優しい音階に帰ってくる自然さを持っていて、音楽の流れは途切れずに、最初のうちは響きの雰囲気も殆ど変わっていきません。そこに登場する憂いを帯びた旋律、そこに至るまでに段々と表情を変えていく過程があるためだと思いますが、その部分だけが突出して心を突き刺すような無神経さはありません。そして、周囲に付きまとう不安感のようなものを、ゆっくりと、けれども確固たる歩みと強さで押しのけていった後の輝かしく大きな包容力を持った音楽、それはまるで寒空に射した暖かく強い太陽の光のよう。僕がこの曲を愛していると思う瞬間の一つ。ヒース氏が最初の希望を見たのはここではないだろうか。

そして、こんなことを言うプロ・オーケストラの奏者が居るのですね・・・。

この曲を演奏したプロ・オーケストラの奏者から「あんな中身のない音楽を選択する指揮者の気が知れない」と言われたこともあります。

まずその奏者の作品の中身を見る目に疑問を抱くし、仮に中身がなかったとしても演奏する必要がないかと言えば、それは全く別の問題。聴衆が望むもの、聴衆が望むかも知れないもの、それを演奏するのが奏者の喜びではないのだろうか。個人的な感想でしかものを書けないが、僕はこの作品を望むし、この作品に救われることも多々あるのだ。と色々書く前に、その奏者の言う「中身のある音楽」が何かを訊ねてみたい。山尾さん! その方にお会いになる機会があれば、ぜひご質問を!

僕がよく取り出す録音はこれ。

Sym 5/Lark Ascending

Sym 5/Lark Ascending

*1:おそらく、同じく山尾さんの著書「ON BOOKS(138)近現代英国音楽入門」で知ったのだと思いますがw