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オイゲン・ヨッフム/ウィーン・フィル

聴いているのはブルックナー交響曲第7番」。Amazonで見付かるのは、これ。手元にあるのはもっと怪しいパッケージで、交響曲第7番のみが収録されている。

Symphony 4 & 7

Symphony 4 & 7

1935年の録音。ワルター/ウィーン・フィルマーラーよりも前だ。ザッと聴いた感じでは、身振りの大きいダイナミックな演奏だと思った。ヨッフムのパッションが、僕は好き。ヴィブラートに注視してみれば、アダージョ楽章にとてもヴィブラートがある。冒頭から続いての50秒付近とかは、手元にある他の「交響曲第7番」の演奏と比べても極端な表情だと思う。そのヴィブラートが収まっていった後の静謐感が素晴らしいのは、その前のヴィブラートの深さがあってこそだ。

こういうものを聴くと、昔からヴィブラートはそれなりに多く存在していた印象を受ける。歌や、色んな世界の民族音楽などを聴いてみても、ヴィブラートが全くない時代や土地なんてないわけでもあるし、奏法としてはかなり昔から定着してきたものなのだろう。もちろんヴィブラートをかけない部分が多いことは確かだ。常時では決してなく、アーノンクールがどこかで言っていたが、「装飾」の一つとしての位置付けであることが良く分かる。その選択は奏者や指揮者に委ねられていた、ということ。だいたい、その奏法を行なう個所全てを楽譜に書けるわけもない。そしてヴィブラートを行なう個所を選択するには、ある種の解釈的視点が必要になってくる。

ところで現代のオーケストラの弦楽器奏者は、そんなにヴィブラートをして、フレーズ感をなくしてしまっているのでしょうか。それはそれで勿体無い。