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作曲家の思い

作曲家それぞれが、自作の演奏について色々な思いを持っている。ストラヴィンスキーなどは「解釈をするな」と言うことも多かったと聞く。僕が入れ込んでいる矢代秋雄は、全く異なったスタンスをお持ちだったようだ。矢代さんが日本フィルの定期演奏会プログラムに寄せた文章を紹介してみる。

「楽譜に忠実に」ということは、現代的センスを備えた演奏家の第一の美徳である。が、ほっておくと、楽譜に書いてないこと、すなわち楽譜に書ききれないことについては、何等考えずに素通りしてしまう演奏家が多い昨今ではある。私が望むよい演奏とは、私が楽譜に書ききれなかったことを推察し、見出し、解釈し、具体的に示してくれるようなものを指すのである。そして、それは、個々の演奏家によって異なった見解となって現れてくる筈のものである。優れた音楽的資質と、卓越したテクニック、鋭い感覚を兼ねそなえた演奏家に手がけられたとき、その人の演奏スタイルが十分に発揮され、必然性と説得力のある表現がなされているならば、たとえば私の発想と喰いちがっていても、十分に敬意を払うし、必ずそこに思いがけない貴重な瞬間を多く体験するだろう。
日本フィルハーモニー交響楽団第259回定期演奏会プログラム

矢代さんは上記の点と同時に、ストラヴィンスキーが解釈を嫌った理由に“過剰解釈されて自作がどうしようもない程ゆがんでしまった”ことを紹介し、矢代さんがこれを書かれた1971年当時の感覚として、現在はそういった危険は減っていると結んでいる。

記譜の方法が進化した現代であれば、音の長さを秒数で指定したり、拍子を段々と変えていくことで、作曲家が感じる時間感覚を楽譜に残していくことは出来るようになってきた。ダイナミクスについても様々な方法を作曲家は考え出している。記譜で足りなければ、曲の冒頭に音価の説明や記号の読み方などを数ページに渡って補足する作曲家も居る。「作曲家が一番大事」ということを標榜される指揮者であれば、作曲家それぞれの思いや取り組みを丹念に拾い上げて、作曲家それぞれ向けに演奏方法を丁寧に議論していく必要があるのではないか。ベートーヴェンは? リヒャルト・シュトラウスは? アルフレッド・リードは? 過去の演奏を聴いたり、色々な文献から当時の雰囲気を感じ取ろうとするだけでなく、作曲家それぞれが求めるものについても思いを馳せて欲しい。矢代さんのように、何等考えずに素通りしてしまう演奏を嘆く作曲家も居たし、今も居るかも知れないのだ。

現代の指揮者は存命中の作曲家と対話して、作曲をする上での精神状態を想像する手掛かりを集め、それを他の曲の演奏にもフィードバックするような取り組みが必要ではないだろうか。演奏に極端な解釈を入れていく必要はないけれども。

例えばリハーサルで、「A-durがバーンと鳴るように」とか「そこはdolceで」とか、書いてあることを読み上げているだけでは、楽譜を読んだことにはならない。A-durは、ちゃんとした音程で奏者同士が同じスピード感で奏すれば鳴るものだし、「dolceで」と言うだけなら誰でもできる。A-durをきちんと鳴らすための方法が提示されるべきだし、「dolce」の表現の可能性の抽斗を用意しておくべきだ。作曲家によって、「dolce」に込めた思いも異なるはず。そういった違いを探し求めていくのが、演奏という芸術行為の目的であり、面白さなのではないか。ピリオド・アプローチを採用する一部の演奏家からは、作曲家を立てるフリをした職場放棄を感じる。そう思うのは僕だけだろうか。