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金聖響のブログでのマーラー鑑賞記録と演奏慣習について

金聖響のブログでワルターマーラーについて言及がありました。

マーラー9番、1938年のワルターウィーンフィルを久々に聴いているが、驚くほどヴィヴラートが少ない演奏だ。

金 聖響 Official Blog 棒振り日記: 欧州CL決勝

「ヴィヴラート」はおいておいてw、金さんが聴かれたブルーノ・ワルター/ウィーン・フィルの録音はこれでしょうか。

Walter Conducts Mahler

Walter Conducts Mahler

僕の手元にはこれと東芝EMIからの国内盤がありましたが、こちらの録音のほうが生々しい。この録音、僕も好きです。粛々と深い悲しみ苦しみを綴っていくようで。この演奏も好きだけど、曲が大好きな気持ちのほうが大きいかも知れない。これを聴きながら。。

ヴィブラートをするところとしないところを丁寧に設定して弾き分けている印象があるのは確かです。第1楽章冒頭のいわゆる「大地の歌」の告別のテーマの箇所などは、弦を真っ直ぐに撫でるような純な音が聴かれて美しいですね。けど、陶酔的と形容したくなるほどにヴィブラートの多い箇所もたくさんあります。金さんは、第4楽章冒頭の情熱的なヴィブラートを発見されていないのでしょうか。第2楽章の速い箇所で弾き延ばされる音の処理に出会っていないのでしょうか。第3楽章でアクセント気味に表情がつけられているのはヴィブラートではないのでしょうか。第4楽章に登場する弦楽器の独奏箇所などでも、あざとくないヴィブラートによる歌が聴かれます。もしかして、第1楽章冒頭だけで判断されているのでしょうか。にも関わらず、

戦後の演奏ってのは、あらゆる慣習を崩壊したんだなと感じる。

金 聖響 Official Blog 棒振り日記: 欧州CL決勝

こういう結論を導き出すのは軽率に過ぎはしないでしょうか。たとえワルター/ウィーン・フィルのこの録音が、ヴィブラートを少なめにして演奏されていたものだとしても、それはワルターウィーン・フィルの解釈であり慣習であるかも知れないわけです。今の演奏慣習がどういったものなのかを語る情報量が僕にはありませんが、今の時代に聴かれる一般的なヴィブラートと比べても、この録音で聴けるヴィブラートはそれほど抑えた表情ではないと思います。何にしてもこの録音を聴いて、金さん自身が進めておられる演奏スタイルに有利な結論を軽々しく導いてしまうのは勿体無い態度ではないでしょうか。ここであっさりご自身の方法論に結びつけるのではなく、「他の同時代のウィーン・フィルの録音はどんなスタイルなのだろう」とか「ワルターがコロンビア交響楽団で録音した同曲の演奏はどうなのだろう」とかの疑問を導き出して、ご自身の演奏活動を深めていく一助にしていくほうが余程いいと思います。この録音一つ聴いただけでは、演奏慣習を云々するだけの情報にはなり得ません。

僕が何度も書いているのは、「楽譜に忠実な演奏はこうだ」「戦前の演奏慣習はこうだ」と思い込んだ瞬間に、思考は止まってしまい、そこに生きた音楽を創造する素養は欠落していくということです。「楽譜に忠実な演奏はこうではないか?」「戦前の演奏慣習はこうではないか?」という疑問を提示し、その疑問を解決していくために、日々の演奏活動で検証していくという態度であるべきだと思います。決して正解はないはずなのです。自分が信じる演奏形態なり音楽の形を、どんどん情報を入れていくことで補強していく、それが同じ曲を演奏し続けるクラシック音楽の存在意義だし、クラシック音楽の深さ・面白さだと思うのです。情報を入れていく過程で、正解と信じていたことが間違っていることに気付く可能性もあるはずです。だけど、今回の金さんのような短絡的に結論を導き出すような態度では、間違いである可能性に思いを馳せることもなく、作曲家に関する研究成果に気付くこともなく、決められた方法論で音楽をし続ける「だけ」になってしまいはしないでしょうか。ご自身の演奏活動を検証されるためにも、金さんには情報を偏りなく見る度量の広さを期待します。

やはり、金聖響さんのマネジメント・スタッフが問題なのではないだろうか。音楽に対する素養が少ないのだな、きっと。売り方ばかりに気を取られていては、未来はないのではないか。