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題名のない音楽会21(その2)

出演者の発言を中心に。

「あえて役割分担」、「真似る」

下野竜也はこう言及しているので、実際の下野さん自身の表現とは違うかも知れない。リハーサル中の羽田健太郎のナレーションが邪魔をしている気がする。つまり「これは作られたリハーサルなのだ」という枠組みを感じさせる狙いが暈かされてないか。指揮者の意図と、司会者の意図と、番組の意図がチグハグ。

「危険も伴なっている」

音楽を説明するために視覚的なイメージを提起することの危うさを、下野さんは分かっているわけで。やはり、常にこういうリハーサルをしているかどうかは怪しいと感じた。

「テンポ感」

羽田さんは、二人の解釈の違いを、テンポ感とアタックの違いで説明しているが、それはどうだろう?

ベートーヴェンも喜んでもらえると思いますけど」

金聖響がこう言った時、笑いが出たのは観客側だけだったような気がする。演奏者からのリアクションが読み取れなかったのだ。演奏者の至近距離での映像が無かったのが残念。金さんは「ベートーヴェンの意志だ」と発言することで、自分の発言の重みにしようとしているのが見えてしまっている。作曲家の下僕として楽譜の丁寧な再現に努めるという大看板を掲げてはいるが、それはやはり説明不十分ではないだろうか。作曲家の叫びを、指揮者本人の叫びに転換していくほうが演奏者の共感を得られると思うし、そうすることで指揮者自身が責任を背負い込むことが出来る。責任を背負い込む、それが指揮者ではないだろうか。「これが作曲家の考えだ」という解釈に自信を持っているのなら、その裏付けをプレゼンテーションしなくてはいけない。そして、それを自分が責任を持って表現する音楽なのだ、という表明をしなくてはいけない。やっぱり、楽しいか楽しくないか、やっている人が面白いか面白くないか、が音楽のインパクトに差に繋がると思う。表現者としての迸る感情が欲しい。

さて。

指揮の技術で見れば、下野さんのほうが数段上と感じた。拍通り振るのは野暮かも知れないが、今の下野さんはそれを自分に厳命しているかのようだ。そうし続けることで、何かが染み出してくるのを期待し、自分の変化を待っているのだろうか。部分的には、効果的に先振りをしているのが分かる。拍を打つ、その前段階で演奏者に何かを伝えようとしている。これは実演でも確認したが、「ああ、こういう音が欲しいのだな」ということが、振り下ろす前から分かるのだ。それに何より、下野さんの年齢に合った若々しさが伝わってくる。理知に逃げない、その瞬間に湧き上がってきた情熱だ。今の年齢でしか出来ない指揮だと思う。

翻って、金さんは音楽に合わせる指揮。鳴っている音楽に合わせて踊っているかのよう。リハーサルで出した指示通りに、踊る。音を聴きながら、指揮を変えていく柔軟さは感じられない。運動量は下野さんよりも少ないのに、振り過ぎに見えるのはどうしてだろう? それに、指示を出したことと、明らかに違う指揮をしている箇所もあるように感じた。指揮姿も、流麗さはあるが、全身全霊と言った本気な姿とは反対側のベクトルだ。おそらく、金さんの中では完成し切った音楽があり、それを愛する心もあるのに、それを表現する術を持たないのだと思う。ある意味、可哀相だと思う。

話は逸れますが、ラトルは好きですよ。歯を食いしばり、くどいくらいにビートを出す指揮姿が好き。ちょっと不器用な感じが。音楽の流れを阻害するのではないかというくらいの拍出し。最近はちょっとずつ拍を間引いたような指揮をするようにはなったが、若い頃の映像は本当に攻撃的。力を抜いていく*1のは、歳をとってからでいいんですよ、と金さんに言いたい。

*1:指揮の技術としての「力を抜く」ではなくて。